祖母が亡くなりました。
97歳だったので大往生。
極々身内だけでのこじんまりとした葬儀。

一緒の家に住んでいたのに、私には祖母との思い出がほとんどありません。
それは祖母と母との折り合いが悪く、母親の目線を通じての祖母しか知らなかったからに他なりません。
大学に入って家を出ると、自分の視野も広がり祖母が悪い人ではないことが分かりました。
しかし「三つ子の魂百まで」という言葉があるように、たまに実家に帰っても祖母と好んで交流を持つことはありませんでした。
それは私が社会人になり、祖母が小さく縮んで行くと共にますます穏やかで良い人間になっていっても変わることはありませんでした。
冷静に見て祖母か母のどちらかが意地が悪かったとか、人間性に問題があったというものではなく、単純に相性が悪かったのだと思います。
どこの家にも「嫁と姑の問題」はあるのでしょうが、もう本当に前世で起こった何かの因縁を持ち越しているとしか思えないくらいでした。
お通夜が始まると、祖母が入所していた介護センターのたくさんの職員の方がお参りに来てくださり、涙を拭っていました。
何十年も会っていなかった、痴呆の入った大叔父(親父の叔父さん)がお通夜の喪主挨拶の後で立ちあがり、突然話を始めました。
「私は宗光といいまして、一番末の弟になります。
亡くなったお義姉さんがお嫁に来た時は私はまだ14歳で、兄(親父の父親。私の祖父)にきれいなお嫁さんが来たのでビックリしたのと同時に嬉しくなったのを覚えています。
それから近所で大火事が起きて焼け出されて、しばらくして戦争が起こって食べるものにも苦労した時代でした。
そんな厳しい時代でしたがお義姉さんの少し呑気な性格にずいぶんと助けられた気がします。
お義姉さんは優しく、いつもよくしてもらっていたのでお礼を言いに来ました」
それまでは杖を突いて参列者に「あなた誰?」と聞いて回っていた大叔父が、矍鑠(かくしゃく)としてそう話してくださいました。
久しぶりに会った75歳を超える伯母(父の姉)は颯爽とスマホを使いこなしていて、私も見たことがない昔の写真データを持っていたので、ラインで送ってもらいました。

(亡くなった祖母は一番右)
「ほんの何十年か前は日常的に和服を着ていた時代だったんだ…。
そして国全体が食べる事にも困っていたなんて、今の若い人たちは知らないだろうなぁ」
祖父や親父たちの食べることに困った話を聞いて育った経験が、今の私の考えのベースを作ったのは間違いありません。
それは「自分が生きていくために必要最低限なことは、自分で出来るようになろう」ということでした。
アウトドアやサバイバルなんていうお洒落なものではなく、「自分の命を自分で維持する」という野生動物に近いものだったと思います。
(そんな考え自体が現代では異端ですよね。笑)
厳しい時代が終わりを告げると、祖母は三味線や長唄を習ってよく自宅で練習していました。
哀しい事ですが、私の少年時代の祖母の記憶はその姿くらいしかありません。
しかし、もう何十年も顔を合わせていなかった親戚と話をし、昔の出来事や祖母にまつわるエピソードなどをたくさん聞くことが出来ました。
中には親父も初めて聞いたような話も多く、自分のルーツを知る貴重な機会でもありました。
初めて見る親父の涙。
一つの時代が終わったなぁ。
おばあちゃん、来世ではゆっくりと話をしようね。
ありがとう。
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自分の最後を考える事もあるのですが、、、最後は笑って死ねれば満点かなと。遊ぶときは全力で遊ぼうと思いました。
「一つの時代」じゃんさんのその言葉、分かります。
私の両祖母も98才と102才の大往生で、その時は私も
全く同じことを思いました。
そして「また会いたいな」とも思います。
それも一緒ですね。
祖母も大往生だったと思います。
色々と激動の時代を生きてきた人間ですから、色々と考えることはあったのだと思いますが、この平和な時代に看取られて亡くなることが出来ただけで幸せだったのではないかと思ったりしています。
本当に一つの時代が終わったと思いました。
悔やまれるのは、やはり祖母とほとんど深い話をしたことがなく、昔の事を色々と聞いておけばよかったと思います。
ありがとうございます。