平成最後の日、ホシノさんの一羽が死にました。

(一週間ほどの前の写真。ミミズを争うように食べています)
朝、魚のアラの煮たものを与えるために庭に出ると、一羽足りないことに気付きました。
「あれ?おかしいな…。最近野良猫が庭に出入りしているから、野良猫に持って行かれたのだろうか?」
そんな事を考えましたが、少しだけ予感もありました。
前日に屑米を与えていると、ほとんど食べない個体がいたのです。
仮に野良猫に持って行かれたのなら諦めもつくけれど、傷ついて木陰でうずくまっているかもしれないと思って探すと、鶏小屋の裏で死んでいました。
「外傷はない。ちょうど3年になるから寿命だろうか。まあ、しょうがない。生きている物には必ず死が訪れる…」
ホシノさん達に関しては放し飼いにして充分に自由に生きてもらったと思っているし、何も後悔は浮かんできませんでした。
卵を産む頻度が落ちたら潰して食べようと思っていたし、家禽というものはそういうものという認識で家に迎えましたからね。
しかしまあ、暖房が必要なくらいの小さなヒヨコの頃から育ててきたし、毎日の餌やりと卵の点検をしていると、ホシノさん達の世話がすっかり生活の一部になっていました。
産卵用のタンパク質補給のために、海へ行くと岩に付くイガイ等を獲ってきたり、釣った魚のアラやイノシシの肺を茹でて与える事が習慣になっていました。
それらを与えるために庭に降りて行くと駆け寄って来るし、庭木の剪定をすると付いてまわる様子を見ると
「まあ、潰して食べるのはいつでもできるかな…」
と思わざるを得なかったのです。
狩猟で鳥や獣の命を奪って食べているけれど、一方ではニワトリにエサを与えている自分。
「人間って勝手な生き物だな」
と思いつつも、たくさんの矛盾を抱えて生きる事が人間らしさでもあるのかなと考えます。
昔からたくさんの生き物を飼い、たくさんの死を受け入れてきました。
幼い時にはなかなか受け入れる事ができずに泣いていました。
「生きていることはそういうことだ。充分に可愛がった。
順番が来て家の中の悪いことを持って行ってくれたんだよ」
そんな風に周囲の大人たちは伝えてくれました。
「早めに食べるべきだったかな。死んじゃったら食べられないじゃないか…。」
そんな強がりを呟きながら埋葬用の穴を掘りました。
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